Mag-log in仕立屋《ラ・フルール》の奥部屋は、甘ったるい香水の匂いがした。
壁一面に色見本の布が吊られ、棚にはリボン、レース、真珠飾り、羽根飾りが整然と並べられている。表の店先は春の花畑のように華やかだったが、奥に入ると途端に商売の顔になる。 採寸台。 請求書の束。 客ごとの好みを記した帳面。 支払い予定表。 美しいドレスは、布と針と夢だけで出来ているわけではない。 金で出来ている。 そしてその金がどこから出たのかを、誰もが気にしないふりをしてきた。 「リディア様、本当に帳簿をすべてご覧になるおつもりですか」 女店主は、扇を持っていないのに、口元を隠すような仕草をした。 中年に差しかかった、細身の女だ。髪はきつく結い上げ、襟元には真珠のブローチ。客の前では柔らかく笑うのだろうが、今の目は笑っていない。 「すべてではありません」 私は机の前に腰を下ろしながら答えた。 「セレスティナ・ヴェルクレア、およびヴェルクレア公爵夫人名義の取引。加えて、石材業者、建材修繕費、孤児院補修費として処理された支払いに関するものだけです」 「それは、ほとんどすべてでございます」 「では、ほとんどすべてですね」 女店主の唇が引きつった。 ギルベルト閣下は部屋の隅に立ち、壁の色見本を退屈そうに眺めている。退屈そうではあるが、目はまったく油断していない。 同行の監査官二名が帳簿を受け取り、机の上に並べた。 私は一冊目を開く。 顧客名簿。 ヴェルクレア公爵夫人。 セレスティナ・ヴェルクレア。 王宮慈善茶会。 聖ルカ孤児院屋根修繕費。 並んでいる文字を見た瞬間、胸の底がまた冷えた。 あまりにも堂々としている。 まるで、悪いことをしている自覚がない。 いえ、違う。 自覚はある。 あるからこそ、名目を混ぜている。 「この『聖ルカ孤児院屋根修繕費』と書かれた支払いですが」 私は帳簿の一行を指で示した。 「実際には何を仕立てましたか」 「……春の茶会用のドレスでございます」 「着用者は」 「セレスティナ様です」 「色は」 「淡い桃色」 「装飾は」 「真珠刺繍、銀糸、胸元に小粒の水晶を」 「代金は」 「……金貨二百四十枚」 監査官の一人が小さく咳き込んだ。 孤児院の屋根仮補修、薬代、毛布、靴下を合わせても、それより少なく済む。 セレスティナの一晩の可愛らしさが、子どもたちの冬より高い。 私は帳簿から顔を上げた。 「店主。あなたは、この名目がおかしいと思いませんでしたか」 「思いました」 意外にも、店主は素直に答えた。 その声には苛立ちがあった。 「思いましたとも。けれど、リディア様。貴族のお金の流れというものは、庶民には分からないことが多うございます。公爵夫人が『これは慈善茶会の一環です』とおっしゃれば、私どもはそういうものかと受け取るしかありません」 「受け取るしかない」 「ええ。断れば、当店はヴェルクレア家の出入りを失います。そうなれば針子たちの給金も払えません。店を畳めば、あの子たちは路頭に迷います」 女店主は、奥の作業場をちらりと見た。 若い針子たちが、こちらを気にしながら布を裁っている。 彼女たちにも生活がある。 それは分かる。 分かってしまうから、嫌になる。 悪人は、いつも分かりやすく笑っているとは限らない。 悪事に関わった者の多くは、自分にも守るものがあったと言う。 そして、それはたいてい嘘ではない。 「では、店を守るために、孤児院の屋根を見なかったことにしたのですね」 私が言うと、店主の顔に血がのぼった。 「リディア様に、それをおっしゃる権利がおありですか」 監査官が息を呑む。 ギルベルト閣下は動かない。 私は女店主を見た。 「どういう意味でしょう」 「あなたはヴェルクレア家の長女でいらした。公爵家の帳簿も、王宮の書類も、あなたがご覧になっていたと聞いております。では、この支払いがどういうものか、本当に何もご存じなかったのですか」 痛いところを突かれた。 私は少しだけ指先に力を入れた。 この女は、ただ怯えているだけではない。 自分だけが裁かれるなら、相手も泥の中へ引きずり込みたいと思っている。 人間らしい。 実に、嫌になるほど人間らしい。 「違和感はありました」 私は答えた。 店主の目がわずかに見開かれる。 「では」 「ですが、決裁権は私にはありませんでした。支払い名目を変更する権限も、基金の配分を決める権限も」 「でも、見ていた」 「ええ」 私は頷いた。 「見ていました。だから今、ここにいます」 女店主は黙った。 「私は、自分が見逃してきたものも含めて確認しています。あなたも同じことをしてください。誰に何を言われ、どの名目で、どの金を受け取ったのか。店を守るためだったと言うのなら、なおさら正確に話してください。針子たちを守りたいのでしょう?」 店主の目が揺れた。 怒りが消えたわけではない。 だが、その奥に、諦めに似た疲れが浮かぶ。 「……公爵夫人から、直接ではありません」 「誰からですか」 「公爵家の執事長アルマン様です。夫人のお言葉として、支払い名目を指定されました」 「証拠は」 「手紙がございます」 「出してください」 店主は少し迷った。 「出せば、私は公爵家を敵に回します」 「出さなければ、監査局を敵に回す」 ギルベルト閣下が横から静かに言った。 女店主は顔をしかめる。 「宰相閣下は脅しがお上手ですこと」 「よく言われる」 「否定はなさらないのですね」 「事実だからな」 店主は疲れたように笑った。 「貴族の方は、皆さま本当に厄介です」 私は思わず返した。 「庶民の方も、なかなか」 女店主は一瞬きょとんとした後、苦笑した。 「リディア様は、噂ほど冷たい方ではありませんね」 「噂ほどでないだけです」 「では、少しは冷たい?」 「だいぶ」 店主はもう一度、今度は少しだけ自然に笑った。 その笑いが消える前に、奥の金庫から手紙の束が出された。 封蝋はヴェルクレア家のもの。 差出人は執事長アルマン。 内容は簡潔だった。 慈善茶会演出費として処理。 請求名目は石材修繕。 支払いは基金経由。 夫人承認済。 その下に、母の署名。 私は手紙を読み終え、机に置いた。 「写しを取ってください」 「承知しました」 監査官が素早く作業を始める。 店主は力が抜けたように椅子に座り込んだ。 「リディア様」 「はい」 「私は、捕まるのでしょうか」 「私が決めることではありません」 「そうでしょうね」 店主は手元の指輪を触った。 商売人の手だ。細いが、針と布を扱ってきた硬さがある。 「ただ、針子たちは関係ありません。あの子たちは、言われた通り縫っただけです」 「それは記録します」 「ありがとうございます」 「まだ、お礼を言われることはしていません」 「そう言う方ほど、後でちゃんとしてくださるものです」 「買いかぶりです」 「いえ。私は客商売ですから、人の顔は見ます」 そう言ってから、店主は少し皮肉っぽく付け足した。 「まあ、そのわりに公爵夫人の顔は見誤りましたけれど」 その言葉に、私は何も返せなかった。 私も、母の顔を見誤っていたのかもしれない。 いえ、見誤っていたかったのだ。 母は不器用なだけ。 セレスティナを偏って愛しているだけ。 私には厳しいだけ。 そう思っていれば、まだ娘でいられた。 だが、孤児院の屋根と妹のドレスの間に、母の署名がある。 もう、見ないふりはできない。 仕立屋を出た時、空は薄く曇り始めていた。 朝は晴れていたのに、王都の西空には灰色の雲が寄ってきている。 雨が降れば、孤児院の屋根はまた漏るだろう。 応急支援が間に合うとはいえ、今夜からすぐ暖かい寝室になるわけではない。 私は馬車に乗る前に、空を見上げた。 「リディア」 ギルベルト閣下が声をかける。 「はい」 「泣くなら馬車の中だと言った」 「泣いていません」 「泣きそうな顔をしている」 「閣下は、女性にそういうことを言うと嫌われますよ」 「すでに多方面から嫌われている」 「開き直らないでください」 「君には?」 「何がですか」 「嫌われているか」 私は返事に詰まった。 まさか、そんなことを聞かれるとは思わなかった。 ギルベルト閣下は相変わらず無表情に見える。けれど、その目は冗談だけではなかった。 答えに困る。 嫌ってはいない。 むしろ、今朝からこの人に救われている部分がある。 だが、そう素直に言うのも癪だった。 「……扱いに困っています」 「そうか」 「不満ですか」 「いや。嫌われていないなら上出来だ」 「閣下の基準は低すぎます」 「高くすると仕事にならない」 この人は、本当に面倒くさい。 冷たいのか、優しいのか、雑なのか、細かいのか分からない。 けれど、少なくとも私を「可哀想な婚約破棄令嬢」として扱わない。 それが今の私には、たぶん何より必要だった。 馬車に乗り込むと、ギルベルト閣下は次の行き先を告げた。 「ヴェルクレア公爵邸へ行く」 私は一瞬、聞き間違えたかと思った。 「今からですか」 「ああ」 「孤児院、仕立屋と来て、次は実家ですか。閣下は本当に人の心の柔らかい部分を踏み抜くのがお上手ですね」 「今日、慈善茶会の招待状整理があると聞いた」 「……ええ」 「そこに関係者が集まる。母親、執事長、茶会の書記役。ついでに第二王子側の使者も来る可能性が高い」 「ついでが重すぎます」 「一度で済む」 「効率を優先しすぎではありませんか」 「効率は大事だ」 私は深く息を吐いた。 分かっている。 避けても仕方がない。 母と向き合う時はいずれ来る。 それが今日になっただけ。 ただ、心が追いつかない。 昨日、婚約破棄された。 今朝、王宮が止まった。 昼に孤児院を見た。 午後には母の不正の証拠を手にしている。 人生が一日で進みすぎている。 「リディア」 ギルベルト閣下が、私の沈黙を読んだように言った。 「無理なら私が行く」 「監査としては、その方が正しいのでは」 「正しいな」 「では」 「だが、君は後悔する」 私は黙った。 痛いところを突く人だ。 「自分の家のことを、自分の目で見なかったと」 「……分かっているなら、最初からそう言えばよろしいのに」 「遠回しに言う練習中だ」 「成功していません」 「そうか」 「ええ」 少しだけ笑えた。 本当に少しだけ。 「行きます」 私は言った。 「ただし、途中で倒れそうになったら」 「馬車に戻れ」 「いえ」 私はギルベルト閣下を見た。 「閣下が支えてください」 言ってから、我ながら何を言っているのだろうと思った。 だが、ギルベルト閣下は真顔で頷いた。 「分かった」 「……冗談のつもりだったのですが」 「私は冗談の判別が苦手だ」 「でしょうね」 「だが、支えるくらいはできる」 変な人だ。 本当に、変な人だ。 私は窓の外へ目を向けた。 王都の街並みが流れていく。 西区から貴族街へ戻るにつれて、道は整い、建物は白くなり、人々の衣服も鮮やかになる。 孤児院の子どもたちが履いていた薄い靴下と、貴族街の店先に並ぶ絹の手袋。 その差が、今までよりずっと露骨に見えた。 私はどちら側にいたのだろう。 きっと、ずっと絹の手袋の側だった。 だが、その手袋の内側に何が隠れているか、もう見てしまった。 ならば、手袋ごと剥がすしかない。 ヴェルクレア公爵邸の門前には、見慣れた馬車が何台も停まっていた。 母の慈善茶会に関わる夫人たちのものだ。 まだ本番の茶会ではない。 今日は招待状の返答整理と、席次の下打ち合わせの日。 毎年この時期、母は親しい夫人たちを呼び、誰を招き、誰を外し、誰を目立たせ、誰に寄付を多く出させるかを相談する。 慈善と言いながら、その実態は社交界の力関係の調整だった。 私は何年も、その席次表を作ってきた。 どの夫人が誰と仲が悪いか。 どの家が借金を抱えているか。 誰が新しい愛人を囲っているか。 誰の息子が賭博で負けたか。 すべて考慮して、母が最も美しく見える配置を整えた。 母はいつも言った。 『リディア、あなたは本当に便利ね』 あれを褒め言葉だと思っていた自分を、今なら少し殴りたい。 「入るぞ」 ギルベルト閣下が言う。 「はい」 馬車を降りると、門番が私を見てぎょっとした。 「リ、リディアお嬢様」 「戻りました」 その言葉が、思ったよりも喉に引っかかった。 戻った。 けれど、もうここは帰る場所ではない。 門番の視線がギルベルト閣下へ移り、顔色が変わる。 「宰相閣下……!」 「王国監査局だ。オルガ・ヴェルクレア公爵夫人に取り次げ」 「は、はい!」 門番は慌てて走っていった。 公爵邸の玄関までの道は、よく手入れされている。 白い砂利。 季節の花。 噴水。 磨かれた窓。 孤児院の黒ずんだ屋根を見た後では、そのすべてが少し気持ち悪く見えた。 玄関に出てきたのは、執事長アルマンだった。 白髪をきっちり撫でつけた、痩せた男。父に仕えて長く、母の信任も厚い。 そして先ほど、仕立屋の店主が名前を出した男。 「リディアお嬢様。昨夜はお戻りにならず、奥様が大変ご心配を」 「そうですか」 「はい。セレスティナお嬢様も、大変心を痛めておいでで」 「そうでしょうね」 私の返事が短いせいか、アルマンは少し顔をしかめた。 だが、すぐにギルベルト閣下へ向き直る。 「宰相閣下。本日はどのようなご用件で」 「慈善基金に関する監査だ」 アルマンの表情が、ほんの一瞬だけ固まった。 ほんの一瞬。 だが、私は見逃さなかった。 「監査、でございますか」 「ああ。夫人に会う」 「奥様は現在、慈善茶会の打ち合わせ中でございます。急なご訪問は」 「急な監査だからな」 ギルベルト閣下の一言で、アルマンは黙った。 その横を通り過ぎながら、私は静かに言った。 「アルマン」 「はい、お嬢様」 「後で、あなたにも確認したいことがあります」 「私に、でございますか」 「ええ。石材修繕費について」 アルマンの喉が小さく動いた。 「……承知いたしました」 声は丁寧だった。 しかし、指先がわずかに震えている。 私はそれを見て、胸の奥が冷たくなった。 やはり、知っている。 この屋敷の誰かは、確実に知っている。 応接大広間に近づくと、夫人たちの笑い声が聞こえてきた。 華やかで、軽くて、どこか鋭い。 「まあ、セレスティナ様は本当にお可哀想でしたわ」 「お姉様があまりにお厳しいと、妹君も息が詰まりますでしょう」 「でもエドガル殿下はご立派でしたわね。弱い女性を守る殿方というのは、やはり素敵ですもの」 私は足を止めなかった。 扉の前で、使用人が困ったようにこちらを見る。 ギルベルト閣下が頷くと、使用人は震える手で扉を開けた。 室内の空気が止まった。 母が中央の長椅子に座っていた。 淡い菫色のドレス。 真珠の耳飾り。 涙を誘うように薄く化粧された目元。 周囲には親しい夫人たちが数名。 その隣には、なぜかセレスティナもいた。 妹は薄水色のドレスに着替え、膝の上にハンカチを置いている。目元は赤く、いかにも泣き疲れたように見えた。 私を見るなり、セレスティナの唇が震えた。 「お姉様……」 夫人たちの視線が、一斉に私へ向く。 悪女が来た。 そう顔に書いてある。 母はゆっくり立ち上がった。 「リディア」 声は静かだった。 人前の母の声だ。 決して取り乱さず、優雅で、悲しみを滲ませる。 「戻ってきたのね。心配していたのよ」 私は一礼した。 「ご心配をおかけしました」 「本当にそう思っているのなら、昨夜のことをまずセレスティナに謝りなさい」 夫人たちが、息を呑むようにこちらを見る。 舞台は整っている。 母は私に謝罪させ、セレスティナを抱きしめ、夫人たちの前で家族の慈悲を見せるつもりなのだろう。 それができれば、昨夜の騒ぎは「冷たい長女の一時の過ち」として処理できる。 私はまた、家の帳尻を合わせる道具になる。 「謝罪はいたしません」 私が答えると、母の眉がぴくりと動いた。 「リディア」 「妹を押しておりませんので」 「またその話を蒸し返すの」 「蒸し返したのはお母様です」 夫人の一人が扇を開いた。 面白がっている。 母の頬がわずかに引きつる。 「あなた、本当にどうしてしまったの。そんなふうに家族へ刃向かう子ではなかったでしょう」 「刃向かいに来たわけではありません」 私はギルベルト閣下を見た。 閣下が一歩前に出る。 「王国監査局だ。慈善基金の支出について、確認する」 部屋の空気が変わった。 夫人たちの顔から、好奇の色が少し消える。 代わりに浮かんだのは、警戒。 慈善基金。 その言葉は、この場にいる全員に関係する。 母は目を細めた。 「監査、ですか。急なお話ですこと」 「急に不正が見つかったのでな」 ギルベルト閣下は容赦がない。 夫人の一人が小さく咳き込んだ。 母は、それでも微笑んだ。 「何かの誤解でしょう。慈善基金は長年、王都の孤児院や負傷兵のご家族を支えてきました。わたくしにとっても、誇りある活動です」 「では、聖ルカ孤児院の屋根修繕費について説明してもらおう」 母の笑みが、ほんの少し止まった。 セレスティナが不安そうに母を見る。 「屋根修繕費?」 母は首を傾げた。 「細かな支出は、執事に任せておりますわ」 「その支出で、セレスティナ嬢のドレスが仕立てられている」 ギルベルト閣下が言った瞬間、室内が凍りついた。 夫人たちの視線がセレスティナへ集まる。 セレスティナは顔を真っ赤にした。 「違います! 私、そんなの知らないわ!」 「セレス、落ち着きなさい」 母が娘の手を取る。 その手は、ほんのわずかに震えていた。 「宰相閣下。お言葉ですが、娘のドレス代を孤児院の修繕費から出すなど、そのような下品なことを我が家がするはずありません」 「証拠がある」 ギルベルト閣下は、監査官に目配せした。 机の上に、写しが置かれる。 仕立屋の帳簿。 アルマンの手紙。 母の署名。 母はそれを見た。 そして、初めて笑みを消した。 「……これは」 声が低くなる。 人前の母ではない。 家の中で、私だけに向ける時の声だ。 「リディア。あなたが持ち出したの?」 「監査局が取得した証拠です」 「あなたが、家の恥を外へ出したのね」 家の恥。 また、それだ。 私は母を見つめた。 「お母様。家の恥は、外へ出した時に生まれるのではありません。中で行われた時点で、もう恥です」 母の顔が赤くなった。 「あなたに何が分かるの。慈善には体裁が必要なのよ。見栄えのしない茶会に、誰が寄付を出すと思っているの? 貴族社会では、華やかさもまた善意を集めるための道具なのです」 「では、孤児院の屋根より、妹のドレスの方が善意を集めるのですか」 「リディア!」 母が叫んだ。 セレスティナがびくりと肩を震わせる。 夫人たちが気まずそうに視線を逸らした。 今までなら、ここで私が黙った。 母を怒らせたくなかったから。 妹を泣かせたくなかったから。 家を壊したくなかったから。 でも、もう黙らない。 「聖ルカ孤児院では、冬に二階の寝室が使えず、子どもたちは食堂で眠っていたそうです」 私の声は、思ったよりも静かだった。 「薬代も足りず、毛布も足りず、靴下すら足りていませんでした」 「それは、どこの施設も同じでしょう。すべてに十分な支援などできません」 「ええ。だからこそ、届くはずだったお金をドレスに変えてはいけなかったのです」 「あなたは何も知らないのよ!」 母の声が鋭くなった。 「慈善茶会を続けるために、どれほどの根回しが必要か。夫人たちの機嫌を取り、寄付額を競わせ、王家に評価される形を作る。それを整えるのがどれほど大変か」 「その席次表を毎年作っていたのは私です」 母が言葉を失った。 「どの夫人を隣にしてはいけないか。誰が寄付額を見せびらかしたがるか。誰が去年より少ない金額を出せば噂になるか。全部、私がまとめていました」 夫人たちの何人かが、明らかに居心地悪そうに身じろぎした。 私は続ける。 「だから分かります。体裁は必要です。華やかさも、時には人を動かす力になります。ですが、お母様」 私は母の署名がある紙を指した。 「これは体裁ではありません。ただの横領です」 母が、私を睨んだ。 その目には怒りだけではなく、恐れもあった。 それを見た瞬間、私は理解した。 母は、自分が悪事をしている自覚がある。 ただ、自分の悪事には理由があると思っている。 家のため。 セレスティナのため。 慈善のため。 貴族社会のため。 その「ため」の後ろに隠れていれば、自分は罪人ではないと信じていた。 「お姉様」 セレスティナが立ち上がった。 目に涙を浮かべている。 「やめて。お願い。お母様をそんなふうに責めないで」 「責めているのではありません」 「責めているわ!」 セレスティナは泣きながら首を振った。 「お姉様は昨日からおかしいの。殿下にも、お母様にも、私にも冷たくして。そんなに私が憎いの? 私のドレスがそんなに気に入らなかったの?」 私は妹を見た。 妹は本気でそう思っているのかもしれない。 この子にとって、世界はいつも自分を中心に回る。 ドレスの問題も、孤児院の問題も、母の不正も、すべて最後には「お姉様は私が憎いの?」になる。 「セレスティナ」 私は静かに言った。 「あなたのドレスが気に入らないのではありません」 「じゃあ、何なのよ」 「あなたが、自分の可愛らしさにいくらかかったのか、知ろうともしないことです」 セレスティナの涙が止まった。 私の言葉が、うまく理解できないという顔だった。 「昨夜のドレス一着で、孤児院の雨漏りは直せました」 「私が払ったわけじゃないわ」 「ええ」 「なら、私に何の関係があるの?」 室内が、しんと静まり返った。 その言葉を聞いた瞬間、何人かの夫人が目を伏せた。 母さえ、セレスティナを止めようとして口を開きかけた。 でも、遅かった。 セレスティナは、自分で言ってしまった。 私に何の関係があるの。 あまりにも無邪気で、あまりにも残酷な言葉だった。 「そうですね」 私は頷いた。 「あなたは、そう思うのですね」 「だって、知らなかったもの。お母様が用意してくださったんだもの。私、悪くないわ。お姉様だって、知らなかったなら悪くないって言ったじゃない」 「知らなかったこと自体は、罪ではないかもしれません」 私は一歩、妹に近づいた。 「でも、知った後にどうするかは、その人の品性です」 セレスティナの顔が歪んだ。 「ひどい」 「ええ。ひどい話です」 「お姉様がひどいのよ!」 「あなたは、そう思っていればいい」 その言い方に、セレスティナは言葉を失った。 母が耐えきれないように口を開く。 「リディア、もうやめなさい。あなたは家族を壊したいの?」 その言葉は、今まで何度も私を縛ってきた。 家族を壊したいの? そう言われると、私は何も言えなくなった。 壊したいわけではなかったから。 愛されたかった。 認められたかった。 ただ、一度でいいから、私の言葉を信じてほしかった。 でも今は、違う。 「壊したいのではありません」 私は母を見た。 「もう壊れていたのだと、分かっただけです」 母の顔から、色が抜けた。 ギルベルト閣下が、静かに書類をまとめる。 「オルガ・ヴェルクレア公爵夫人。慈善基金の支出に関し、王国監査局への資料提出を命じる。本日中に過去三年分の帳簿、支出承認書、関係書簡、会計担当者の名簿を提出しろ」 「本日中など」 「できない場合、監査局が直接押収する」 母は唇を噛んだ。 夫人たちは、もう完全に沈黙している。 誰も母を庇わない。 さっきまで「セレスティナ様はお可哀想」と囁いていた人々は、今は自分に火の粉がかからないよう、扇の陰に隠れている。 社交界の友情など、薄い砂糖菓子のようなものだ。 湿気れば、すぐ崩れる。 「リディア」 母が私を呼んだ。 声が、少しだけ震えている。 「あなた、本当にそこまでやるの」 「はい」 「母を裁くの」 その言葉に、胸が痛んだ。 痛む。 まだ痛むのだ。 それが悔しかった。 この期に及んでも、母に母でいてほしい気持ちが、どこかに残っている。 私は本当に面倒くさい。 人間は、どうしてこんなに簡単に割り切れないのだろう。 「裁くのは私ではありません」 私は言った。 「証拠です」 母は黙った。 「私はただ、もう見ないふりをしないだけです」 部屋の中に、重い沈黙が落ちる。 その時、扉の外から慌ただしい足音が近づいた。 使用人が飛び込んでくる。 「奥様、申し訳ございません!」 「何事です」 「第二王子殿下の使者が、至急リディアお嬢様をお戻しするようにと……南部侯爵との会談が、完全に決裂したとのことで」 部屋の空気が、別の意味で固まった。 ギルベルト閣下がこちらを見る。 私は思わず目を閉じた。 殿下。 本当に、なぜこの場にさらに油を注ぐのか。 使用人は息を切らしながら続けた。 「それと、殿下よりお言葉が」 「何と」 私が尋ねると、使用人は気まずそうに視線を泳がせた。 「『リディアは私の婚約者だったのだから、最後まで責任を持つべきだ』と」 その瞬間、ギルベルト閣下が初めて、はっきりと不快そうな顔をした。 母は目を伏せた。 セレスティナは、私を見る。 夫人たちは扇の陰で息を殺している。 私はゆっくり息を吸った。 そして、使用人に向かって言った。 「お伝えください」 「はい」 「リディア・ヴェルクレアは、昨日をもって第二王子殿下の婚約者ではなくなりました。したがって、殿下の会談失敗に対する責任は、殿下ご自身にございます」 使用人の顔が青ざめる。 「そ、それをそのまま」 「そのまま」 私は微笑んだ。 「それと、南部侯爵夫人のお名前はエレオノーラ様です。次に謝罪なさる時くらいは、お間違えなきように、と」 夫人の一人が、堪えきれず小さく吹き出した。 すぐに扇で隠したが、遅かった。 セレスティナが泣きそうな顔で私を見ている。 母は、何かを言いかけて、言えなかった。 ギルベルト閣下だけが、低く呟いた。 「悪女監査官らしくなってきたな」 「その呼び名を定着させるのはおやめください」 「無理だ」 「なぜですか」 「私が気に入った」 「最悪です」 そう答えながら、私は少しだけ笑ってしまった。 こんな場所で。 母の不正を突きつけた直後に。 妹に泣かれ、元婚約者から責任を押しつけられた直後に。 それでも笑えた。 たぶん、それでいい。 私はもう、泣くためだけにここにいるのではない。 ギルベルト閣下が扉へ向かう。 「行くぞ。資料提出の準備は監査官に任せる。次は王宮だ」 「王宮?」 「第二王子殿下が、まだ君を使えると思っているらしい」 「もう使えないと教えに?」 「いや」 ギルベルト閣下は、少しだけ目を細めた。 「君が誰の直属になったのか、正式に知らせに行く」 その言葉に、母が顔を上げた。 セレスティナも。 私は一瞬、息を止めた。 ギルベルト閣下の直属。 それは、私がもう公爵家の娘としてだけ扱われないということだ。 第二王子の元婚約者としてだけでもない。 王国監査局の人間として、私自身の名で立つということ。 私は静かに頷いた。 「参りましょう、閣下」 扉へ向かう途中、セレスティナが小さく私を呼んだ。 「お姉様」 私は足を止めた。 「本当に、帰ってこないの?」 その声は、今までより小さかった。 泣いて私を戻す声ではなく、本当に分からない子どものような声。 少しだけ、胸が痛んだ。 けれど私は振り返らなかった。 「帰る場所は、自分で決めます」 それだけ言って、私は部屋を出た。 背後で、妹が何かを言いかけた気配がした。 母の息を呑む音もした。 けれど、もう戻らない。 廊下へ出ると、ギルベルト閣下が私を待っていた。 「支える必要はあったか」 「今のところは」 「そうか」 「でも、少し疲れました」 「馬車で五分だけ目を閉じろ」 「五分で回復すると思われているのですか」 「十年働いた女なら可能かと」 「閣下」 「冗談だ」 「分かりにくいです」 そう言うと、ギルベルト閣下はほんの少し笑った。 「少しは休め」 今度は、命令ではなかった。 たぶん。 私は頷いた。 公爵邸の玄関を出る。 空から、ぽつりと雨が落ちてきた。 石畳に小さな染みができる。 雨。 聖ルカ孤児院の屋根は、今夜までもつだろうか。 私は空を見上げ、拳を握った。 桃色のドレス。 慈善茶会。 母の署名。 妹の涙。 殿下の無責任。 全部、つながっている。 ならば、一つずつ切る。 もう二度と、誰かの涙で、誰かの罪を隠させない。 私が悪女だというのなら。 その悪女は、泣いている子どもの屋根くらい、直してみせる。第72話 冷血宰相の婚約者ではなく 婚約した女は、社交界で急に便利な存在になる。 リディアは、そのことを知識としては知っていた。 誰かの妻になる予定の令嬢。 誰かの家へ入る女。 誰かの隣に立つ者。 そうなった瞬間、その人自身の名よりも、相手の家名や役職が先に歩き出す。 昔、リディアは第二王子エドガルの婚約者だった。 その頃、彼女に近づいてくる人々は、たいてい柔らかな笑顔をしていた。 殿下のお好きなお茶は何かしら。 次の慈善茶会に、殿下のお名前をいただけないかしら。 うちの息子の騎士団配属について、殿下に軽くお耳へ入れていただければ。 王子殿下はお優しいから、きっとお分かりくださるでしょう。 彼らはリディアを見ているようで、実際にはリディアの向こうにいるエドガルを見ていた。 そしてリディアは、その頃、自分をそういうものだと思っていた。 婚約者とは、橋である。 王子へ話を通すための、柔らかく、品よく、傷ついても声を上げない橋。 だから、ギルベルト・レイヴァン王弟宰相との婚約が発表された後、リディアに届く招待状の種類が変わったことには驚かなかった。 驚きはしなかった。 ただ、うんざりした。 それもかなり。「リディア監査官」 監査局の机の前で、セオが招待状の束を両手で持ち上げていた。 厚みだけで小型の帳簿くらいある。「本日の分です」「昨日も同じ量を見ました」「今日は少し増えています」「なぜ増えるのですか」「婚約者効果では」「正式名称ではありません」「何の正式名称ですか」
第71話 父は、娘の年齢を覚える レオポルド・ヴェルクレア公爵は、数字に弱い男ではなかった。 領地の収穫高。 王都屋敷の維持費。 従属家への貸付。 王宮へ納める税。 晩餐会一度にかかる銀食器の磨き代。 そういった数字なら、彼は覚えていた。 いや、覚えているつもりだった。 少なくとも、家臣たちの前で恥をかかない程度には。 しかし、監督官が公爵家会計室に入った日、レオポルドは自分が何も知らないことを知った。 公爵家の会計室は、北棟の奥にある。 昔からそこにあった。 だが、レオポルドがその部屋へ足を運ぶことは少なかった。 会計報告は執事長がまとめて持ってくる。 オルガが慈善関連の支出を確認する。 必要なものは机の上に置かれ、レオポルドは署名をする。 それで公爵家は回っていた。 回っていると思っていた。 今、その会計室の中央には、王国監査局から派遣された監督官が座っている。 年は四十前後。 名はマティアス・ローク。 淡々とした男で、声を荒げない。 だが、紙を見る目が怖い。 レオポルドは、最近そういう人間ばかり見るようになった気がした。 リディア。 ロザリー記録官。 監督官マティアス。 数字と紙の前で、妙に静かになる者たち。 彼らは怒鳴らない。 だから余計に逃げ場がない。「公爵閣下」 マティアス監督官が、一枚の名簿を差し出した。「まず、屋敷内使用人の名簿確認をお願いいたします」
エドガル・クレイム第二王子は、提出期限というものが嫌いだった。 昔から嫌いだった。 いや、正確に言えば、提出期限そのものを嫌いだと意識したことすらなかった。 なぜなら、期限が来る前に誰かが整えてくれていたからだ。 王子教育院の課題。 式典の挨拶文。 地方視察後の報告書。 慈善茶会への返礼文。 第二王子府の月次執務報告。 どれも、最後には綺麗な形になってエドガルの机へ置かれていた。 もちろん、彼も何もしていなかったわけではない。 目を通した。 署名した。 時には「ここの表現は少し冷たくないか」などと言った。 言った後、リディアが静かに直してくれた。 だから、自分は執務をしていると思っていた。 王子として必要な判断をしていると。 今になって思えば、あれは判断ではなく、整えられた皿の上から好きな果物だけを選ぶようなものだった。 種を取るのも、皮を剥くのも、傷んだ部分を切るのも、全部誰かがしていた。 その誰かの名前を、エドガルは長い間、きちんと見ていなかった。 リディア・ヴェルクレア。 王国監査官。 かつての婚約者。 そして、自分が便利な机のように使っていた人。 その事実は、最近になってから何度も胸の奥を刺した。 刺すだけなら、まだよかった。 問題は、今も提出期限は来るということだった。 王太子府の執務室。 エドガルの机には、分厚い書類が積まれている。 ヴァルモント公爵領の施療院薬代支援に関する差異報告。 白羽の会旧支援先への再配分確認。
オルガ・ヴェルクレア公爵夫人は、受領書というものを軽く見ていた。 少なくとも、以前の彼女はそうだった。 物資が届けば、使用人が確認する。 寄付金が動けば、会計係が記録する。 茶会の収支は執事長が整え、礼状は書記係が下書きし、最後に夫人である自分が目を通して署名する。 それが、公爵家の慈善だった。 美しい封筒。 整えられた字。 感謝の言葉。 夫人方の穏やかな微笑み。 銀の茶器。 白い花。 そこに、木箱の数や、毛布の枚数や、石鹸の重量などというものが入り込む余地はなかった。 少なくとも、オルガの中では。 だから、彼女は今日、王宮東棟の雨音基金準備室で、一枚の受領書を前にして、完全に固まっていた。「公爵夫人」 監督官の声は、決して荒くない。 むしろ丁寧だった。 丁寧すぎるほど丁寧だった。 それが余計につらい。「こちらの欄には、納入予定数ではなく、実際に受領した数を記入してください」 オルガは、羽根ペンを持ったまま、紙を見つめた。 納入予定数。 実際に受領した数。 似ている。 いや、似ていないのかもしれない。 だが、今の彼女には似て見えた。 書類にはこうある。『冬季支援用毛布 納入予定数:百二十枚 実受領数:百十六枚 不足数:四枚 備考:運搬中破損二枚、積込時確認漏れ二枚。再納入予定あり』 オルガは、その一番上の百二十枚を見て、受領欄へ百二十と書いていた。 美しく。 とても美しい字で。
第99話 宰相夫人のひいき リディアがハーグレイヴ伯爵家から受け取った最初の返事は、財産記録ではなかった。 正式な抗議状だった。『王国監査官リディア・ヴェルクレアは、私的な家族経験から生じた偏見により、善良な寄付者を不当に犯罪者扱いしている』「善良な寄付者」 ギルベルトが、感情のない声で読み上げた。 感情がない時ほど、彼は怒っている。 レイヴァン邸の朝食室。 焼きたてのパンも、温かい卵料理も、誰にも手をつけられないまま冷め始めていた。「続きがあります」 リディアは抗議状の二枚目をめくる。「読みたくない」「公文書です」「君が読めばいい」「先ほどから読んでいます」「私の前で読むな」「同じ部屋にいるので無理です」 ギルベルトは抗議状を睨んだ。 紙に罪はない。 だが、今の彼なら紙へ爵位剥奪を命じかねない。「オズワルド・ハーグレイヴ伯爵は、公開審問を要求しています」 ロザリーが淡々と報告する。「監査官による権限濫用の有無、寄付者への不当な圧力、伯爵家の名誉毀損について、王宮で明らかにしたいとのことです」「受ける必要はない」 ギルベルトが即答した。「受けます」 リディアも即答した。 二人の声が重なった。「なぜだ」「拒否すれば、権力で隠したと言われます」「言わせておけ」「雨音基金の信用へ影響します」「君の安全より基金を優先するな」「今回は石を投げられていません」「
聖ルカ孤児院へ行く日の朝、ギルベルト・レイヴァン王弟宰相は、いつになく真剣な顔で荷物の前に立っていた。 王宮の会議室で旧貴族派と向き合う時も、ヴァルモント公爵の処分文書を読み上げる時も、ここまで険しい顔はしていなかった気がする。 目の前にあるのは、木箱三つ。 一つ目は、雨音基金設立前の臨時支援物資。 中身は新しい毛布、靴下、石鹸、薬草茶、簡易包帯。 二つ目は、子どもたち用の手習い板と筆記具。 三つ目は、王妃宮から届いた焼き菓子と干し果物。 そして、少し離れた椅子の上に、セレスティナが持参した焼き菓子の籠があった。 その籠だけ、なぜか誰も触れない。 リディアはそれを見て、少しだけ胸が痛んだ。 避けているわけではない。 ただ、皆がほんの少し警戒している。 前回の焼き菓子が、なかなかの硬さだったからだ。「閣下」 リディアが声をかけると、ギルベルトは木箱から目を離さずに答えた。「何だ」「そんなに見つめても、荷物は軽くなりません」「配置を確認している」「配置?」「馬車へ積む順番だ。一番重いものを奥に、すぐ使うものを手前に置く。孤児院到着後に運ぶ動線も確認した」「……本当に雑務係として本気ですね」 そう言った瞬間、ギルベルトが静かにリディアを見た。「雑務係ではない」「失礼しました。荷物係でしょうか」「それも違う」「では」「宰相だ」「宰相が荷物を運ぶのですか」「必要なら」 この人は本当に、必要と言えば何でも押し通せると思っている。 リディ